太母様が道門を開いて以来、甑山道は道門の名前を普天教と言い、布教に出向きました。普天教は、日帝(日本支配下)の厳しい監視の中においてさえも爆発的に道勢を拡大しました。朝鮮の人口が二千万人にもならなかった当時において信徒数が七百万人にもなりました。彼らは巨大な信仰決死隊であり、反日独立運動の拠点にもなりました。しかし、急激な勢力の拡大と独立運動への支援を恐れた日帝の残虐非道な弾圧のため、普天教は水面下に潜ります。
そのような状況の中でなんとか命脈だけを維持してきた甑山道は、代々信仰を保ち続けてきた家にお生まれになった安雲山宗道師様の血心により、戦後再びの復興を成し、数十万の信徒が入道しました。ところが、これもまた朝鮮戦争の勃発とともに霧散されてしまいます。この後、甑山道は長い休憩期に入ります。
その後二十年が経過し、一九七〇年代に入ります。この時、「三遷であればこそ、私の仕事が成し遂げられる」とおっしゃった上帝様のお言葉通り、安雲山宗道師様と安耕田宗正様が再び開拓に出向きました。これより、三度目の復興を成して今日に至ります。