神人合一の万事知文化が開かれる

神人合一の万事知文化が開かれる
それでは、天地は何を為しているのだろうか? 天地の理法はどのようになっているのだろうか? 天地は、春には物を出して秋には滅ぼす、という作用をする。つまり出しては滅ぼし、出しては滅ぼす。ただそれだけである。10年であれば10回出して10回滅ぼす。20年であれば20回出して20回滅ぼす。天地は、春には物を出す事だけをし、秋には滅ぼす事だけをするのである。
地球一年とは草木開闢の周期である。そして宇宙一年もまた、地球一年の草木開闢と全く同じ理法、同じ秩序、同じ自然摂理に沿って回ってゆく。近来「氷河期と間氷期の交替説」というのがあったが、それも結局は宇宙一年の話である。私が話す宇宙原理というものは、易天不変、即ち天が変わっても変わることのない絶対的な原理である。この自然摂理が成熟するに伴って、人類の歴史も成熟する。人類文化の総体的な結晶体が現れるのだ。コンピューターや携帯電話を人工衛星を通して繋ぐ現代は、文明の極致時代であると言われるが、人類文化の極致とはそのようなものではない。総体的な人類文化の結晶体とは、神人が合一する文化、つまり天上の神明と地上の人間がひとつとなる文化である。
今日の科学文明というのは、ただ機械に依存して人間の生活を便利にするだけのものである。しかし、人類文化の極致というのは、神明は人に出会い人は神明に出会って神人が合一し、機械に依存せずとも自分が知りたい事はすべて知ることができる文化である。そのために真の神様がこの世にいらしたのである。

真表律師の祈り

神様はこの宇宙を主宰なさる方である。この「主」という文字は「王」という意味を持ち、「宰」と言う文字は意のままに裁断するという意味をもつ。宇宙変化の法則上、人類歴史の法則上、真の神様が人間の世に来なければならない事情があったので来られたわけである。そこに歴史的考証を付け加えると、約1300年前の朝鮮半島に真表という僧がいた。彼は仏教の僧でありながら「神様にお会いしたく存じます」と精誠を込めて祈祷した。もしも自分の願いが果たせないなら、死のうとまで思っていた。
真表は期間を定めて、その時までに神様に会うことができなければ死のうと覚悟し、自分の体を石で砕いて懺悔するという修行をした。これを天上からご覧になっていた玉皇上帝は、会ってやらなければ間違いなく死んでしまうだろうと思われた。 それで真表の前に現われ、「汝の精誠は大したものである。
私のこの姿このままの仏像を建てなさい」と語られた。その後、真表は今の全羅北道金堤の金山寺に東洋で当時最大の33尺の弥勒仏を建立した。
仏僧たちにとっては仏様が神様である。仏には二つの種類があるが、座っている仏は過ぎ去った仏であり、立っている仏は、将来開闢の時、西方浄土から歩いてこられるという弥勒仏である。このようにして金山寺に弥勒仏が建立され、この時から弥勒信仰が始まったのである。
マテオ・リッチの訴えで来られた上帝様
また、マテオ・リッチ(1552~1610)というイタリア出身のカトリックの神父がいた。彼は中国に来てカトリックを中心に世界を統一しようと熱心に布教した。生涯そこでカトリックの活動をした後、この世を去った。マテオ・リッチは孔子よりもイエスよりも釈迦よりも優れた人物であった。
彼は東洋の文化をラテン語に翻訳して西洋に伝えた。また、坤輿万国地図を製作するなど、西洋文化を東洋に取り入れた。カトリックを中心とした世界統一国を建設しようとしたのである。しかし、それを果たすことが出来ずにこの世を去り、その肉体は中国に埋められた。生前にその志を果たせなかったことが無念となり、死後、彼は天上の文明化した星々をくまなく訪ねて、人間生活に役立つものを科学者たちに霊感を与えて地上に取り入れさせた。
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その結果、文明が発達し、地上の人間たちは便利な生活をするようになったが、かえって人の心はより悪くなってしまった。しかし、彼自身にはそれを改め直す何の方策も無かったので、歴史的な文化の創始者たち、例えば孔子や釈迦やイエスなど、各文化圏の創始者たちを訪ね、対策を尋ねてみたが、これといった名案が出なかった。

そこで東洋の神聖、仏菩薩、西洋文明の創始者、歴史的な東西文化の創始者たちと共に「我々にはどうすることもできないから、宇宙の主宰者であられる玉皇上帝様を訪ねて訴えるしかない」として、上帝様に申し出たのである。上帝様の御前に進み出て「私たちの能力ではこれら人類の問題は到底解決できません。真なる神様であられる玉皇上帝様が直々に人間世界に赴かれ、歴史的に絡み合ったすべてのことを整理なさり、全人類が豊かに暮らせる新しい文化を創り出してください」と申し出た。
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それで真の神様、甑山上帝様がこの世に降りて来られたのである。上帝様は「私は西洋の大法国の天蓋塔に降りて天下を巡回した。その後、汝の東土に止まって30年間弥勒仏像に身を寄せ、この混乱した世を正すため、崔水雲に天命と神教を下して大道を立てようとした。しかし、水雲が儒教の枠を超えることが出来ず真法を作り出せなかったため、甲子(1864)年に天命と神教を取り上げ、私が自らこの世に降りてきたのである」と語られた。