天下蒼生の生死が君たちの手にかかっている
ところで、上帝様の公事によれば、人の種は残さなければならない。上帝様は「この世の災厄を私が全て退けた」と語られた。ここ日本の信徒たちは、信仰していながらも甑山上帝様の権威がわからず、誰なのかも良く知らない。「先天の聖人たちと比べれば、孔子よりも少々勝り、イエスよりも少々勝り、釈迦よりも少々勝る方だ」と、このように考えている者もいるだろう。しかし、上帝様はどんな土砂降りの中でも一滴の雨にも打たれることがなかった。現代の臓器手術もそうだし、世のすべてのものは上帝様の公事によって現れたものである。上帝様は死後何日も経った人を生き返らせたこともある。短時間でそのすべてを語ることはできないが、この世は上帝様の公事通りに動いている。この宇宙を主宰する絶対者の神、統治者でなければ、歴史上の神明たちを統治することはできない。上帝様は、「私がこの世の全ての災厄を退けたが、病劫だけはそのまま残し、君たちに生き残る道である医統を伝えよう。」と語られた。医統とは、医者の「医」に統一の「統」である。医という字には生かすという意味がある。つまり、生かして統一する、という意味である。政治も統一し、宗教、経済、文化、社会も統一する。医統を使うときが来れば、全てが一つになる。それでは病劫はどのように来るだろうか? 上帝様の話によれば、開闢のときには、歩きながらも死に、食事をしながらも死に、寝ながらも死ぬ。洪水の如く押し寄せる。
上帝様は、「天下蒼生の生死が君たちの手にかかっている。1里の道で、一人の人に会えるかどうかわからないほど人が死んでいく時でも、人の種は残るべきではないか。」と語られた。天下蒼生とは、60億の人類のことである。即ち「60億人類の生死は君たちの手にかかっている、君たちが頑張れば多くの人を救い出すことが出来、失敗すれば皆死ぬほかない」との意味である。
真の神様からしてみれば、天地で人間農事を営み、ここまで導いてこられたのだから、何としても人間の種を残さなくてはならない。その為に上帝様がこの世に来られた。上帝様は、民族や種族を超えて全人類に奉仕するために、この世にいらしたのである。
上帝様の文化は君師父の文化
天地の摂理からすれば、既存の文化圏というのは、花を咲かせて育てる過程であった。既存文化の聖者たちは真理の一部分を提示したにすぎない。それに大して、宇宙の主宰者、統治者であらせられる上帝様のお造りになった世界は、政治・宗教・経済・文化・社会などの各部門が統合されたひとつの文化圏である。 言い換えれば、上帝様の文化は君師父の文化であり、実りの文化であり、統一された宇宙の結実期の文化である。
では何故、君師父の文化を結実期の文化というのか? この宇宙原理、自然摂理がどのようになっているかを簡単に説明すると、春夏は分裂・発展の時で、生み出しては限りなく分裂・発展してゆく。そして、秋冬になれば、春に産み出して夏まで育ててきたエキスをすべて抜き取って、結実、収斂、成熟し、ひとつの文化圏、ひとつの実を結ぶのである。人類文化も宇宙の秋になると、自然摂理の必然的な帰結として、ひとつの文化、結実の文化が現れるのである。
後天仙境へとつながる生命の橋、甑山道
これから訪れる世界はこれまでに現れた文化圏とは根本的に違う。人類の歴史を振り返ってみると、土地を奪い合う戦争のみに明け暮れてきた。ところが、来たるべき世界では人類の文化が極致に発達し、ひとつの文化、結実の文化になるのである。 春夏の時間帯から秋冬の時間帯に移る時には、草木の開闢が起きる。草木が実を結んだ後には、霜雪が降りて、一株の草も残さず全部枯らしてしまう。それが天地の理法であるからだ。天地は春に物を産み出すだけではない。秋には締め括って無くしてしまうのである。それで上帝様は「天地の大徳も春生秋殺(春には物を出し、秋には滅ぼす)の恩威によって成り立つ」と語られたのだ。
天地が人間農事を営んできて、人間の結実をすることになったのだが、それでは誰が取り入れをするのだろうか?
天地が人間農事を営んできて、人間の結実をすることになったのだが、それでは誰が取り入れをするのだろうか?
60億の人類が生きて渡るべき秋の世界、即ち後天仙境への橋、それが正に甑山道である。甑山道は先天の春夏の世から後天の秋冬の世へ渡る生命の橋である。この真理の橋を渡らなければ、誰一人後天の世界へ入ることは出来ないのである。